社会福祉法人桐鈴会 理事長
  黒岩 秩子

目次
 1.まあちゃん、さっちゃんとの出会い
 2.共に育つ会の始まりと「大地塾」
 3.森山里子との出会い
 4.鈴木要吉さんからの提案と「夢のハウス」
 5.名前の由来
 6.棟上げ式−申し込み殺到
 7.桐鈴会の理念
 8.「桐鈴凛々」
 9.竣工式
10.入居者
11.運営懇談会
12.ショートステイ
13.ヘルパーステーション
14.グループホーム「桐の花」
15.看取り
16.夢草堂
17.ボランティア
18.鈴懸施設長と理事長の交代
19.障がい者グループホーム ひまわり
20.工房とんとん
21.グループホーム「おひさま」


1.まあちゃん、さっちゃんとの出会い
 1971年、私は3人の子どもを連れて東京から浦佐に引っ越してきました。72年4月から浦佐保育所に保母として勤め始めました。半年後、浦佐に幼稚園ができ、定員をオーバーしていた子どもたちがかなり幼稚園に移ったので、それまで待っていただいていた5歳児のまあちゃん(牛木正和)とさっちゃん(水落幸子)(知的障がいを持つ)が9月から入所してきました。私はこの二人の担任になりたいと名乗り出て、私のクラスになりました。この子たちとの出会いがその後の私の人生を決定的に変えました。
 「迷惑をかけ合おう」というスローガンを名刺に刷り込むようになったのも、彼らとの出会いの結果です。物覚えがいいか悪いか、てきぱきと仕事を片付けられるかどうかというような物差しで人を測ることの問題性にも気付かせていただきました。30年間もこういう方々と出会うことなく生活してきたのは、それぞれの障がいごとに収容している結果だということにも気付き、まあちゃん、さっちゃんにはうちの子どもたちが行く浦佐小学校に行ってもらおう、と考え、まあちゃんは、私の双子と一緒に、さっちゃんはその翌年、一年下の学年に入りました。
2.共に育つ会の始まりと「大地塾」
 「かずえちゃんの二年目」という映画の上映会をお寺の庭で催したのは、73年だったでしょうか?初めてのイベントでした。障がいを持つかずえちゃんの小学校での生活が描かれていたように思います。我が家の居間が会場で、保母仲間や、町役場の人たち、保健婦さん等が、ときには子どもを連れて集まりました。まあちゃんや、さっちゃんのお母さんたちを始めいろいろな障がいを持つ子どもたちの親御さんも来られて、講演会をしたこともあります。
 不定期で会合を持っていた「共に育つ会」というものは、会則も会費もなかったので、誰が会員なのか、だれもわからないというかなりいい加減な集まりでした。それにもかかわらず、このグループの存在は、大和町はもとより、新潟県内に知られるようになり、大和町教育委員会の方には、子どもたちの就学をめぐって、地域の学校に入りたいという親子のサポートをしてきた「共に育つ会」を「世間」とまで呼んで怖がられるということもありました。
 1990年3月で、私は勤めていた大和町の保育所を辞めて、我が家の一角をバリアフリーの部屋に改装し、「大地塾」という誰でも来られる塾を始めました。不登校の小中学生、障がいを持った子どもたちや大人たち、様々な悩みを抱えた方々が、県内各地のみならず、県外からも訪ねてこられるようになりました。「共に育つ会」に集う皆さんが、それらの方々とも交流を持ち、お互いがその違いを理解し合ったり、理解できなくて悩んだりしながら、育てあっていきました。
 1990年初めからは、共に育つ会の会報「大地」を発行しはじめ、毎月これの到着を待つ人たちが全国に広がりました。始めは、ほんの100部位の印刷でしたが、人から人へ、「大地」が口コミで広がっていき、1998年春に102号を発行するころには、初版が700部位になっていました。その途中で、この「大地」を本にするという話がわいてきて、径(こみち)書房から「未来をはぐくむ大地から」という本になって、全国に広がりました。この本の著者は、25人にもなりました。不登校の子どもや、障がい児を持つ親たちの手記、役場職員や、保母たちの実践の中で自分たちが変化してきたさまなどを書き綴ってきたのでした。
3.森山里子との出会い
 1974年春、東京の「がっこの会」の主宰者渡部淳さんから手紙が来ました。「今度森山里子さんという会員が、引っ越していきます」。がっこの会というのは、障がいをもったこどもたちが「がっこいく」とよくいうので、障がいを持った子どもたちも普通学級へという願いを込めた親たちやその支援者たちで作った全国組織の名前です。私は、当時大和病院で小児科の医者をしていた池亀卯女さんからの紹介で会員になっていました。
 森山里子は、高校を卒業して上京し、昼間働きながら、明治学院大学二部で社会福祉を勉強していました。その時に昼間働いていた障がいを持った幼児たちの通園施設で、普通学級に行くという運動にかかわり始めたそうです。その後、家に入るということで、大工をしていた夫豊さんが、大工をやめて二人で小出町板木の家に入りました。
 私は、5番目の子どもが生まれる直前のおなかを抱えて、板木に車を飛ばしました。出てきた森山里子も妊娠中でした。私が男女の双子を産んだというと、「いいなあ。私も!」といったのです。すると5月に乙水が生まれ、その秋彼女も男女の双子を産みました。それ以来、我が家に子連れで集まっては、地域で障がい者が普通に暮らせるようにといろいろ話し合い、「共に育つ会」の中心メンバーとなって一緒に活動を続けてきたのでした。
 県が始めた知的障がい者のミニコロニーの第一号六花園が堀之内にできた時、そこの指導員になり、日ごろ知的障がい者と接するという彼女にしかできない話をみんなで共有しながら、語り合いました。夫豊さんも一緒に来たこともあったのですが、若くしてガンで亡くなってしまったのでした。
4.鈴木要吉さんからの提案と「夢のハウス」
 鈴木要吉さんは、直(すなお)君というダウン症の子どもを持つお父さんでした。「共に育つ会」には、はじめのころから顔を出してくださっていました。その鈴木要吉さんから450坪と5000万を寄付するという申し出があったのは、1996年の春のことでした。それは、黒岩卓夫が、二回目の町長選挙に落ちた直後のこと。大和町を医療と福祉のまちにするということで、仲間たちで、町長選挙に取り組んだのですが、落選してしまった時に、「町長にならなくてもできることがあるから、それに取り組もう」という意見が出て、その時に鈴木要吉さんがこの提案をしてくださったのでした。
 これについて「共に育つ会」で集まってはいろいろ夢を語り合いました。「制度にのるのではなく、障がい別に分けることなく、すべての人が利用し合える『夢のハウス』を作りたいね」(そのころは、知的、身体、精神、と障がい別に分かれていた)というのが多くのメンバーの共通認識でした。ところがよく話し合っていくうちに、「今の私たちの力では、とてもそんな夢は無理だから、とりあえず、社会福祉法人を立ち上げて、そこから夢の実現に向かおう」という現実路線が、落ち着きどころとなりました。そこで、新潟県に問い合わせると、この地域で、まだ足りないのは、ケアハウスだけだというのです。さっそく資料を取り寄せたり、すでにできているケアハウスを見に行ったりとの活動を始めました。その上で、そのようなものの必要性をアンケートで調べました。その結果わかったことは、一人、または二人の老人家庭のみならず、家族と暮らすお年寄りでも入りたいという人がかなりあることがわかりました。こうなったら始めましょう。と意思を固めたのでした。
 建設費の2分の1は国、4分の1は県、残りの4分の1が設置者負担なので、私たちが用意しなくてはなりません。総工費5億、その4分の1をどうやって集めるか、この時に集まった中心のメンバーは、それぞれ出せる範囲で出し合ったほか、個人から定期預金ぐらいの利子で借りようということになって、全国に呼びかけました。2週間で、60人を超える方々から9000万が集まり、利子はいらないという人が圧倒的でした。ちょうど厚労省が、景気対策として、公共事業の前倒しというので、98年中に認可が下りてしまいました。
 このときの書類を作ったのは、森山里子です。鈴木要吉さんの家の地下を事務所にして、よく集まりましたが、日常的には、森山里子が、そこの住人でした。このとき、ここに集まった26人の人たちが、その後の理事や評議員になっています。鈴木要吉さんも理事として支えてくださっていましたが、2013年9月亡くなってしまいました。
5.名前の由来
 社会福祉法人とケアハウスの名前をどうするのか、かなりの時間をかけてみんなで話し合いました。法人の名前は、鈴木さんが寄贈してくださった450坪の畑にあった大きな桐の木5本が倒されてしまうので、それを名前に残しておこうということ、そして、鈴木さんの鈴を合わせて「桐鈴会」に決まりました。「鈴懸」という名前も“鈴木さんの想いに懸ける”という意味合いです。
 倒された桐の木は、鈴懸のお部屋の入り口のドアに張り付けたり、表札にしたりして、木の香りがする家庭的な雰囲気作りに貢献してもらいました。
6.棟上げ式−申し込み殺到
 1999年7月末が、棟上げ式でした。餅まきをして、ご近所の方々にもこれから見守っていただくということをお願いしたりしたのでした。それが、たくさんの新聞に報道されるや、入居申し込みが殺到しました。11月にできることになっていたのに、8月末には、30人定員のところ40人の申し込みがあったのです。「終の棲家を目指して」というフレーズが、その方々の目にとまったようでした。ケアハウスというものは「自立可能な老人の施設」という制度なので、ほかでは介護度が高くなれば出ていくという条件が付けられているようなのです。それでは、全財産を処分して入居するという決断がしにくいということは、予想できます。
 これについては、医療的なバックがあるということが、桐鈴会の強みでした。萌気園による二週に一回の定期的な往診はもとより、訪問看護や、訪問リハビリなど在宅のまま受けられるサービスがそろっています。もちろん病院に行かなくてはならないときには、必要なら送り迎えを、今では有料でしています。
 しかし「終の棲家」ということがどれだけ大変なことなのかがわかるのには、何年間かが必要でした。
7.桐鈴会の理念
 ・終の棲家を目指す
 ・「迷惑をかけあえる関係」をめざす
 〜高齢者、しょうがい者、子どもたちが安心して住める地域を創ろう〜
 (2008年春、職員会議、役員会で討論の末、決めたもの)
8.「桐鈴凛々」
 地域の皆さんに知っていただこうということで、広報紙を出すことにしました。その名前が「桐鈴凛々」だったのです。凛々というのは「凛とした」という意味合いでした。初めて出されたのは、1999年8月2日号です。
 そのうち、写真入りで、地域の方の顔が載るので、病院、郵便局、お店などに積んでおくと持って行っては読んでくださっているようで、配達して届けている方も含めて、地域の皆さんにも、桐鈴会の存在は根をおろしてきたと思います。また、全国の皆さんから、資金提供とか、ボランティアとかで、ご協力いただいているので、その方々にも発送しています。二カ月に一回の発行ですが、今では、800部が、初回に印刷されています。2018年9月現在121号まで発行されています。
9.竣工式
 1999年11月17日に入居が始まり、ほとんどの入居者がそろった11月28日に、竣工式を鈴懸の食堂で行いました。全国から、それこそ北海道から九州まで、広域にわたる参加者があり、地域のみなさんを驚かせました。大和町からは、町長をはじめ各界の代表者などが参加してくださり、まさに、地域のみなさんの祝福を受けての旅立ちにふさわしい会となりました。
 工事関係者、ご近所、入居者のご家族もたくさん来られて、にぎやかなパーティーとなりました。
10.入居者
 30人の入居者のうち、家族と生活してこられた方が、8人入られました。二人暮しの方が、3組、後は、施設や、病院からの4人を除き、一人暮らしの方です。また、男性がとっても少なく、当時は、たった6人でした。そのうち3人は、カップルでしたから、一人暮らしの男性の方は、3人だけでした。
 その時の平均年齢は77歳。東京から引っ越してきた方もありましたが、すべて、新潟県に足場を持っている方ばかりでした。
11.運営懇談会
 入居者の要望を聞くことをテーマにして、午後のひととき全員が食堂に集まって、職員も含めて話し合いを持ちます。3か月に1回というのが定着しています。
 食事については、投書箱を置いて、皆さんの声が直接届くようにしています。ときには、外に持って行って食べたい、という意見が出るとそれを「お弁当の日」という形で実現したり、誕生会をどうするか、というのも、ここでの大切なテーマです。誕生日の方の要望に従って、その人と職員と、有志が、外食する年もありますし、その人の食べたいメニューを厨房で作って食べるという年もあります。
 食堂の座席についてもテーマになりました。今では、3カ月に一回くじ引きで席替えをするということで落ち着きましたが、さまざまな意見が飛び交って、職員たちにとっては、調整機能を高める絶好のチャンスでしょう。また、「衛生観念」ということも一人一人大幅に違うので、落とし所を見つけるのもなかなか大変です。
12.ショートステイ
 ゲストルームが、体験入居室になったり、家族の旅行に伴うお年寄りのショートステイに利用されたりしながら、かなりの利用率になったので、一部屋では足りなくなり、もう一部屋増築することになりました。県の許可を受けて、介護保険適用外の施設として2001年8月スタートしました。二部屋に、ベットは二つずつ入っていますから、最大4人は利用できるのですが、合い部屋では、いやだという方もあるので、4人で泊まることはほとんどありません。料金は、1日2500円(合い部屋は2000円)、食事は1食550円です。
 ここが介護保険適用外であるということによって、かなり様々な方が利用されます。産後うつで、育児ができなくなったお母さんの家族がここに泊まり、赤ちゃんは、託児所に、お父さんとお姉さんはそれぞれ出勤、登校をここからし、お母さんは、休んで、1月ぐらいで好転して、帰って行かれたこともありました。また、家に住めない事情ができた方の一時避難所としても使われ、地域の方々のお役に立てているようです。
13.ヘルパーステーション
 鈴懸入居者の介護度が上がり、ヘルパー利用者が増えてきたので、一番必要な朝早くと夜遅くをカバーできるものとして、二階にあった「多目的ホール」を改造して、「鈴懸おはようヘルプ」というヘルパーステーションを2003年6月1日にスタートしました。始まった時から、どんどん利用者が増えていきました。はじめは、7時から21時という営業時間は、かなり大変だったとは思うのですが、「終の棲家」という理念を追求するには、朝と夜の時間帯をヘルプできる自前のヘルパーステーションが必要でした。だんだんに鈴懸以外の方のところにも行くようになりました。
 桐鈴会本来の「障がい者」向けのサービスとして、2006年10月1日に「自立支援法」に基づいた事業が認可され、2007年4月から始まりました。
 2018年9月現在、ヘルパーステーションの職員は、登録さんも含めて11人になっています。
 ここの責任者として頑張ってくれたのは、小野寺栄子。ほかのヘルパー事業所から見放された様な困難なケースも引き受けて、みんなで知恵を集めて取り組んできました。
14.グループホーム「桐の花」
 鈴懸がスタートしたときには、軽い認知症の方が一人だけでしたが、そのうちかなりの方がそれらしき様子です。「鈴懸」の入居者の「認知症」が周囲にとって許容できなくなってきました。その人が、自分の部屋がわからなくなって、ひとの部屋に入っていってのトラブルが続出。その結果、皆さんが、部屋にいても鍵をかけるという状態になってしまい、「認知症」対応の老健を探して、そちらに移っていただくことがありました。「終の棲家」が崩れた瞬間でした。「認知症」の方にとっては、場所の移動というものは他の人より大変なので、「鈴懸」の隣に認知症グループホーム(GHと略す)を作ろうということが話し合われ、その申請を県にしたところ、大和町では、GH入居希望者は、たった一人であるということで、申請が却下されました。なんとそれが2年続き、助成金なしで、自前で作ろうということになり、銀行からの借り入れを含めて、何とか用意ができ、2004年10月に完成しました。入居希望者は、一人どころか、定員の9人をはるかに超えたので、選考が大変でした。「鈴懸」からの転居二人を含め全員が、南魚沼郡(当時)の方々の入居でした。そして開設当時から待機者が、10人ぐらいあるという状態が続いています。町が「ニーズは一名しかない」と言い続けたのは、「ニーズを探せなかっただけ」ということが判明しました。以来14年で18人がなくなり、1人が、六日町に特養ができてそこに転居し、19人の新しい方が入られましたが、まだまだ待機者が、たくさんです。
 2004年10月23日24日が、見学会でした。一日見学していただいた後、夕方、中越地震に見舞われました。24日に予定していた竣工式は、延期となり、翌年の一月に行いました。
 以前から、お寺を移築しようということで、黒岩卓夫が解体屋から購入していたものが、その時「桐の花」に併設して移築され、地域交流伝承館「夢草堂」として生き返りました。このお寺の持ち主だった旧吉川町国田集落のみなさんは、23日の見学会に大勢で来られ、自分たちのお寺が、生き返った姿を見て、感激して帰られました。
 GHは、できて3年たつとデイサービスが始められます。設備を広げなくていいために経費が半分で、3人まで使っていただけるのです。共用型というもので、2008年4月から始まりました。そのためにパートの職員が増えて、総勢14人。
15.看取り
 鈴懸での初めての看取りは、お酒の好きなOさんでした。「ここで死にたい」というOさんのしっかりした意志によって、職員たちも覚悟が決まりました。家族との協働により、最後の看取りを鈴懸で行うことができたのですが、その後のセレモニーホールでのお葬式があまりにもさびしいものだったので、鈴懸で見送りがしたいね。という話も出てきました。
 その後、Kさん、Hさん、Sさん、Uさん、Fさん、Oさんと6人の方を見送り、Hさん、Uさん、Oさんの時には、夢草堂でのお葬式が実現しました。
 桐の花でもすでに18人すべてを病院でではなく、ここで看取りました。「看取りがしたくて、ここに来た」という星野淳子が管理者だったので、入院先から、あと2〜3日の命と言われた方を病院と掛け合って退院させて3日後に亡くなったというケースもありました。
 2008年09年になってからは、鈴懸、桐の花で、立ち続けに亡くなっていき、そのうちの何人かは夢草堂でのお別れ会となりました。その中の一人が、鈴懸から桐の花に移って暮らしていた私の母北大路隆子でした。
16.夢草堂
 2004年10月23日、中越地震の日に出来上がったのは、「桐の花」と同じです。できてみるとその効用は想像以上でした。広田セツ子を館長として、女性だけ5人の運営委員で、企画運営を始めました。その後男性も含めていまでは7人となっています。
高松在住「戦争とハンセン病の語り部」喜田清さんの講演会をはじめとして様々なイベントが行われてきました。
また、鈴懸や桐の花の入居者のお葬式もここで行われることもありました。夢草堂運営委員の一人榎本宏さんは、僧侶の資格があって、お盆やお彼岸の法要を始め、夢草堂での葬儀には、読経の係です。お経を短くして、知り合いが弔辞を読むのが、ここの葬儀の特典となっています。
 そのころ鈴懸に入居してこられた阿部房江さんからグランドピアノが寄贈され、何回か音楽会も開かれました。
17.ボランティア
 地域の皆さんがいろいろな形で、ボランティアとしてかかわってくださっています。
近くにある北里学園の学生さんや、国際情報高校の学生さん、大和中学の生徒さんをはじめ、踊りの会や、お琴の会などが、夢草堂で、入居者に披露してくださいます。
 月に1回入居者と地域の方々との「お茶会」をしているのですが、そのたびにお茶出しにきてくださったり、抹茶の会も月1で行われています。週1で掃除に、定期的に傾聴ボランティア、夏祭りの準備や後片付けには、毎年早朝から櫓つくりのほか夜遅くまで手伝ってくださる男性陣があったり、太鼓をたたきにきてくださる親子さんなど、本当に数えきれないボランティアの皆さんのお力無くしては、運営できないほどです。
18.鈴懸施設長と理事長の交代
 2007年5月1日、鈴懸施設長森山里子が、家の都合で退職することになり、広田セツ子が就任しました。広田セツ子は、理事として、ずっと運営にかかわっていたのみならず、森山里子の補佐として、いろいろな勤務形態で、ほとんど収入がないままこれまでも働いてきていました。
 ちょうど2007年3月に桐鈴会理事長を卓夫から私が引き継ぎ、二人で一緒に新米として登場したのでした。
 2008年11月には、桐鈴会の10周年記念行事をすぐ近くにあるコミュニティ−ホールさわらびで行い、福岡寿さんの講演によってたくさんの勇気をいただきました。
19.グループホーム ひまわり
 もともと桐鈴会は、障がい児を持つ親たちが中心になって作ったものです。障がい者の施設を作ろうという声が上がってきて、はじめに作ったのが古家を改装して6人の男性のみのGHでした。2011年4月にオープンした「ひまわり」です。ここはバリア有りなので、身体障がい者は無理ですが、知的障がい、精神障がいの皆さんが生活しています。初めのころは、朝と夜の食事を作る世話人さんたちがいただけで、昼間と夜は、職員なしでした。日中、熱を出して休む人がいても職員なしなので、持病持ちの人には60歳になったときにケアハウスに転居してもらったこともありました。そんなこともあって、夜泊まってくれる職員を募集したところ、高齢の男性3人が交代で勤務することになりました(2015年)3人の男性は、入居者に頼りにされ、いろいろと活躍しています。
20.工房とんとん

 障がい者の日中活動の場と重度の人が泊まれるケアホームを作りたい、という関係者からの声を受けて、県内外の施設を親御さんたちと見学に行くことを繰り返しながら、一方では、土地の取得、資金集めなど、様々な活動を経て、2013年4月に「工房とんとん」が出来上がりました。
 まずは土地です。鈴懸の東隣にある畑の持ち主井口義雄さん(長岡市在住、旧大和町出身)が、300坪の土地を売って下さることになり、資金をこしらえて、払う段になって測量してみたら、360坪あったのです!それでも、井口さんは、以前提示された地代に上乗せすることなく分けてくださったので、大変ありがたい土地取得となりました。ここに日中活動の場20人定員(重度の方の生活介護6人、軽度の方の就労支援継続B型14人)と、7人定員のケアホームを作ることになりました。ここでは、隣にある広大な県立公園「八色の森」に来る親子連れが、気軽に入ってこられて、子どもを遊ばせながらランチができるレストランを開こうということになりました。障がいを持った方々の活動として、パン作りがいいということになって、当時鈴懸施設長だった広田セツ子は、「森山里子に入ってきてもらおう」と考え、両親の介護のため退職した森山里子を、その後両親が続けて亡くなったために、手が空いているからと誘って自分が退職するとすぐに家で≪パンの勉強会≫を始めました。山本孝子を先生として広田セツ子の家で、週1でパン作りです。私からは、一つだけ注文をしました。「小麦粉の使用を増やすと、食料自給率が下がってしまうから、なるべく米粉を使ってほしい」。みるみる出来上がったパンがおいしくなっていき、3人は、次々に新しいパンを開拓していくのでした。そうこうするうちに新しい施設の職員採用が始まり、「おいしいパンを作って人に食べてもらうのが夢」と言ってどこまでも行って勉強しているという若い方(中村和子)も現れ、この≪パンの勉強会≫に参加するようになりました。
 管理者は、桐の花の管理者だった星野淳子。サービス管理責任者(サビ菅と略す)は、おはようヘルプの管理者だった佐藤雪江が赴任し、二人が力を合わせてこの新しい施設を立ち上げました。佐藤雪江は、1年で転居し退職、湯本利恵子が後任となりました。
 2013年3月には、工房とんとんが出来上がり、内覧会を経て4月1日がオープン竣工式、開園式でしたが、職員は、パートさんを含めて16人、利用者さんは、たった6人という寂しさでした。レストランには、≪すずカフェAble≫という名前が付き、ここは4月20日にオープンしました。11:00〜15:30という短い営業時間のうえ、日月休みとあって、「行ってもやってなかった」という沢山の苦情をいただきながら、何とかスタートを切りました。
 障がい者部門が立ち上がった記念として、地域の皆さんと共にその喜びを共有できたらと言う想いで、二つの行事を企画しました。二つともかなり前から温めてきたもので、一つは、自閉症の画家田中瑞木さんの絵の展覧会。これはすでに数年前に夢草堂で行ったのですが、狭いので、ほんの一部しか展示できなかったのです。それでも、50号100号などのとても大きな作品が、迫力を持って迫ってきて、見る人の心を揺さぶってくれました。小学3年生の子どもさんが、「あれ、僕の教科書にある絵だ!」と大声を張り上げたこと忘れられません。「ねこの原っぱ」と言う100号の絵です。様々な賞を取っている作品です。
 もう一つの記念行事は、ドキュメンタリー「あぶあぶあの奇跡」上映会を400席ある「コミュニティーホールさわらび」で行いました。500円のチケットを役員、職員皆で販売に力を入れた結果、たくさんの方が見てくださり、その感動を伝えてくださいました。西宮にある知的障がい者の楽団≪あぶあぶあ≫が日本国内はもとより、アメリカのカーネギーホールにまで行って、観客を感動の渦に巻き込んでしまうというものでした。終わってホールを出ていく方々が皆、目を赤くしておられたのが印象的でした。
 2013年11日、ケアホームおひさまができ、そこの入居者6人が加わったので、2014年には4人の新人を迎えて定員20名何とかクリアできました。利用者さんたちは、パン班で、袋詰めや、シール貼り、また手作り班ではさまざまな小物つくり、市役所から頂く「官公需」などに従事し、働きによって工賃を受け取るという生活です。いろいろな事業所に昼食用のパン販売に職員と出かける人たちもあります。3時半にパンが残ると私が、「パン屋でーす」と言いながら、色々な事業所や、個人宅を回っていました。今では、すぐ近くにできた基幹病院前ローソン-がパンを置いてくれるようになったおかげで、パン販売の労は嘘のように減ってしまいました。国産小麦粉とバーターで作ったパンはおいしいと評判です。
 すずカフェableは、子連れの若いお母さんたちが、キッズコーナーで子どもたちに遊んでもらって、大人のおしゃべりを楽しんだり、障がいを持った子どものお母さんたちもよく利用してくださっています。半年ぐらいは、パンランチのみだったのですが、その後、利用者さんや、職員が日替わりランチを食べているので、それと同じメニューで、「すずカフェランチ」をメニューに加えました。何しろ厨房をしきっている方が、温泉旅館の女将だった方なので、とても味がよく皆さんに喜ばれています。
 生活介護では、刺し子をする人に、ペットボトルの皮はがしの得意な方もあって、就労に結びつく方もありますが、基本的には、お散歩など、楽しいプランが用意されています。重度の方々にとっては、入浴がメインの方もあります。
 利用者さんたちの自治会ができました。会長さんは、Iさん。彼は、大工さんだった方で、脳梗塞で右片麻痺となり、リハビリに励んでいます。左手だけで、ミシンを使って実にきれいに仕上げてくれます。私のズボンの裾上げもスマホ入れも彼の作品。その後何回か交代しながら自治会は続いています。
 2015年4月から、管理者が森山里子に代わり、様々な助成金が取れるようになったために、利用者さんの工賃が、上がっていきました。毎日休まず来ていて、4万円近くもらっている人もあるようになりました。
 2017年度現在、平均工賃20,000円以上支払っている就労B事業所は、全体の7%程度です。工房とんとんは、何とかその7%の中にいます。みんなで力を合わせて、この平均額を維持していくため新メニュー、楽しい作品作りにチャレンジしています。

21.グループホーム「おひさま」
 障がい者の部門の始まりは「ケアホームができることが夢」と語ってくれた井口美賀さんの言葉からでした。その夢が2013年11日やっとかないました。
 そもそも「障害者自立支援法」の趣旨は普通の人たちが生活しているように、「夜寝るところと、昼間活動するところは、離れているべき」と言うことで、私たちもその考えには共感するのですが、ここゆきぐにでは、冬のことを考えるととても車いすの方が、雪の中移動するのは大変と考え、工房とんとんと隣接して作るケアホームから、とんとんへの連絡通路を作って冬場だけこれで行き来をする、と言うことを県に認めてもらって、設計に取り掛かりました。ここで言う「設計」とは、おおざっぱな間取りのことです。これまで、新築してきた「鈴懸」「桐の花」「工房とんとん」はすべて森山里子の設計によるものです。
 「おひさま」の職員を探すのが大事業でした。11月にオープンが決まったというのに、10月には管理者が森山里子と決まっているだけで、まだ一人も職員が決まらないというありさま!最後の1か月間で、週1回だけ、と言う方を含めて11人が決まり、やっとスタートを切ることができました。入居者については、11月は、6人の入居者でスタートとなりました。ほとんど日替わりで世話人が変わるのですが、利用者本位で考えてくれる職員ばかりだったため、利用者たちもすぐに打ち解けて、暖かい空気が流れている場所になっています。
 グループホームひまわりの入居者が、脳出血で入院するという≪事件≫があって、昼間も夜中も職員がいないGHでは無理と言うことになって一部屋あいていたところに引っ越してきて、7部屋すべて埋まったのが2月でした。30歳から64歳まで、女性が4人男性が3人です。障がいとしては、知的、身体、精神それらの合併の方もあります。私をこの道に導いてくれたさっちゃんこと水落幸子さんが、入居しました。
 7人すべてが、昼間は工房とんとんに通っています。すでに工房とんとんが始まった時から通ってくれていたまあちゃんこと牛木正和さんを含めて、5歳の時からのお付き合いだったさっちゃん、まあちゃんが桐鈴会の利用者さんになってくれて、私はとっても幸せを感じ、40年以上前からのここに至る道をかみしめています。とっても残念なことでしたが牛木正和さんは、薬の副作用で、2015年2月21日に亡くなってしまいました。48歳。
 4月からは、24歳と言う若い生活支援員が、来てくれて、毎日昼間職員がいるという体制が出来上がりました。入居者7人とも医療機関との連携が欠かせず、薬を飲んでいない人が一人もいない状況です。でも話ができない人は一人もないので、いつも会話が弾んでいます。慣れるにしたがって、入居者間のトラブルも発生していますが、生活というものはそういうものなので、職員がその機をとらえて、話し合いを持ち、絆を深めていっています。
 おひさまには、7人の部屋のほかにショートステイの部屋を一つ作りました。ほとんど毎日利用されています。
 すずかけができた時から鈴懸で生活相談員をしていた小林裕子が2015年4月から森山里子に代わって管理者となりました。
 実は、この間様々な制度改正があり、2017年4月から、ケアホームおひさまは、名称をGHおひさまに変えました。また、GHひまわりと兼務の職員も多いので、この二つを一体化してして運営しようということになり、GHおひさまに「おひさま」と「ひまわり」という二つのホームがあるという形になりました。